静岡市は、家康公が人生の約3分の1を過ごされた地であり、幼少時代に教育を受けたとされる臨済寺、大御所時代に居城となった駿府城などゆかりの地を多数有します。遺言により久能山東照宮に埋葬されるなど、家康公にとって特別な場所でもあります。
岡崎城主 松平広忠の長男として生まれる。
母・於大の方。
父・広忠と母・於大の方が離別する。
父・広忠が織田家の攻勢に降伏。織田家の人質として差し出される。
徳川家康が75年の生涯で、最も長く暮らしたのは駿府こと静岡です。岡崎に生まれ江戸に幕府を開いた家康を知る方々は、意外に思われるかも知れません。ですが家康は生涯に3度、あわせて約25年、すなわち生涯の3分の1を駿府で過ごしました。つまり家康は2度、駿府に戻ってきたことになります。それだけ駿府は家康にとって愛着の強い地でした。この駿府で家康はどのように過ごしたのでしょうか。
最初の駿府での暮らしは8歳から19歳まで。竹千代こと幼少の家康は、駿府で成長して元信、元康と名をあらため、今川義元の親戚の築山殿と結婚し、義元を支える武将に成長しました。この頃の家康は今川氏の「人質」と思われがちです。しかし家康は幼少ながらすでに松平家の主として、義元に仕えているのです。義元も家康を優遇し、今川氏の親族として扱いました。家康は若年ながら駿府にあって、領地の支配を家臣たちとともに行いました。このような家康は「人質」には見えません。
静岡浅間神社には、義元が若き家康に与えた甲冑(紅糸威腹巻)が伝わります。その当時は紅花で染めた鮮やかな紅糸の甲冑だったと思われます。義元が織田信長に敗れる桶狭間合戦の時にも一九歳の家康は「朱武者」とよばれ、朱色の甲冑を着けています。まだ若い家康は、華やいだ赤い甲冑が好きだったのかも知れません。晩年の老成した大御所家康のイメージとはちがって、若々しい武将家康の姿が目にうかびます。
二度目の駿府の暮らしは四五歳から四九歳まで。家康は五か国を治めて豊臣秀吉に仕える大大名になっていました。互いに争いライバル視しあったイメージが強い秀吉と家康ですが、実は二人は義理の兄弟(秀吉の妹旭姫が家康の妻)。家康は一貫して秀吉を支えます。東日本での戦いでも、家康は秀吉、その甥の秀次、重臣の前田利家、浅野長吉、東北の伊達政宗らと協力していることが、静岡市が所蔵する古文書から分かります、この頃の家康が秀吉の後の天下を狙っていたなどあり得ません。
この頃の家康は、たびたび家臣を招いて「振舞」つまり会食や酒宴を催しています。家臣たちは家康の命令で天守、高石垣、堀をもつ駿府城の築城のため働きました。また家康とともに秀吉の住む京都に出向くことが増えていました。徳川家の果たす役割が大きくなり、家臣たちの負担も重くなりました。家康はこうした家臣たちを思って「振舞」を行ったのでしょう。大好きな鷹狩りで家康みずから得た獲物を振る舞うこともありました。家康は家臣たちの心をつかみ信頼される主君となっていました。
最後の駿府の暮らしは六六歳から亡くなる七五歳まで。家康は江戸幕府の大御所となって駿府に戻ってきました。家康はよく駿府で「隠居」したと言われます。しかし家康は子の将軍秀忠とともに「両御所」とよばれる天下人でした。しかも全国統治の命令は駿府の家康政権が発していたのです。外国人も家康を日本の最高権力者、「皇帝」と考えていました。このような家康が「隠居」であるはずはありません。
家康は大改修により拡張した駿府城にあって、世界の情勢をつかんでいました。城内で「南蛮世界図屏風」つまりヨーロッパの世界地図をもとにした屏風絵を見ています。外国の使節も「皇帝」家康に対面するため駿府を訪れました。家康が外国人と対面する部屋は、天井が黄金に輝き、家康が座るビロードの椅子がありました。保守的な印象が強い家康ですが、実は海外の文明を積極的に採り入れていたのです。
三度の駿府の生活からは、思いも寄らない家康の真の姿がうかび上がってきます。最後に家康は死に臨んで駿府に近い久能山に眠ることを望みました。駿府を愛し、駿府で天寿を全うした家康。静岡には今もなお家康の息吹が生き続けています。